よく音楽では、
一番才能のある人間は作曲家になる。
次に才能のある人間は演奏家になる。
才能のない人間は評論家になる。
なんて揶揄されたりします。
芸術は己の内のエゴではありません。
誰が一番エライとかスゴイとかそういう事ではなく、
この話は、新之介さんもおっしゃっていた、
受信機の話に通じるものがあります。
音符という記号を使って壮大な交響曲を作曲する、
それは神業とも言える、一つの宇宙や世界を記すワザ。
かのモーツアルトは、その直筆の譜面に推敲の形跡がないといいます。
(消しゴムとかないですからね、書き直してないのが分かるのです)
私の知るアーティストの多くも、多かれ少なかれ、
きっと、受信機を感じたことがあるのではないかと思います。
天からの才を以て、一番感度の良いアンテナを持つ人は、
それを現在の記号に具現化し、
二番目のアンテナでそれをキャッチした人が、
鍛え上げた技術をもって、記号を表現する。
そして多くの人の五感に届けられていく、そういういことだと思います。
新之介さんが、何故「和の心にて候」という祭事が出来たのか。
否。
最高級に感度のよい、そんなアンテナを持った人は、
それを体現していかないことには、自分の生を、
意味あるものに保っていくことが出来なくなってしまうのだと、
そう思うのです。
新之介さんは今、和の心にて候を、
己の内から多くの人へアウトプットするチャンネルとして選択し、
その情熱を様々な記号を使って書き記しています。
さ、アンテナを磨きにかからなきゃね。笑
2008年8月2日土曜日
サマータイム

ガーシュウィン作曲の
「ボギーとベス」というミュージカルの、
その曲を歌うには良い季節になってきました。
ずっと昔、私の歌をきいてくれた大切な友人は、
「あんたの歌ってあんたの人生だよね」
と言ってぽろぽろ涙を流しました。
そのころ私はまだ本当に本当に子供で、
一回り以上も年齢の違う大切な友人の、
やり場のなかったその心を
どうにも共有することが出来なくて、
ただただ、歌を歌って躍ってバカ騒ぎをして、
時間のうわずみだけをすくって、
その夏を過ごしていきました。
夏は、お祭りや、火が多いせいかしら、
この現と別の世界を近く感じて、
どうにも戻らない時間軸を逆行し、
もう会う事のできなくなってしまった人達と、
四次元の遠くで待ち合わせをしようと思いをめぐらす時間が増えます。
願い続ければ、歌い続ければ、もう一度届くと信じて。
すばらしいこの国の四季があるから、
季節ごとにこの世界との関わりがある。
先日、一緒にお祭りに行った幼なじみが、自分の住んでいた町は、
「お祭りに恵まれていなかった」と嘆いているのをきいて、
ちょっと感激してしまった。
それはつまり、ずっとその土地に代々暮らしていた人々という継承がなくて、
所謂、新興住宅地とか、大きなマンションがどどんと建ち並ぶところで、
氏神様の存在が希薄なのです。
もしかすると、私が<和の心にて候>に携わっていなかったとしたら、
気にもとめない言葉であったかもしれない。
でも、夏は、なにしろ、お祭りするんだよね。
よし。わかった。
道行く人の、笑顔、笑顔、笑顔。
知ってる人も知らない人も、笑顔、笑顔、笑顔、笑顔。
和の心にて候。
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