ちょうど一年前。
「和の心にて候 in 熱海」
私は熱海の駅を降りて、MOA美術館まで、
歩いて行くことにしました。わくわくしながら。
それは、
後から思ったこと、ですが、
熱海駅から、あの道を登っていくこと、
そして入り口から、いくつものエスカレーターを上り、
相模灘を一望する、あの展望、目に入る光の多さに、
一瞬だけ景色が真っ白になりそうなあの場所から
能楽堂までの順路は、つまり、さながら参道のようで、
一歩ずつ一歩ずつが静謐感と高揚感につつまれていくようであって、
また下って、熱海の駅へつく頃には、
山全体を振り返り、ぐっはー!すごい演出だったな。
と奮える思いがした。
当時、新之介さんの正体も知らず
(今も、よくはわかりませんが、笑)
殆どの予備知識もなく、フライヤーのカンだけで来てしまった私に、
何が起こるのか、想像もつかなかったこの舞台で始まったことは、
みたことのないものだったけれど、それは最初から美しいものだった。
それもそのはず、これは儀式だ。
装束を正し、身を清める。
こういう行為、人の気持ちそのものが、美しい事に決まってる。
作法を大切にしているこの国の、ある一つの行事が行われるための、
イントロダクションだ。
ディジュリドゥというその古代の楽器を、
私は以前から知っていて、すごい楽器があるもんだなあと思っていた。
風の音、太鼓の音、ディジリドゥの音の波、
つまり、あとから人によってつくられた西洋の12音階の
ハーモニクスを持たないその他様々な楽器や音たちは、
私たちに人の身体と自然、大地の音がまだ一つだった頃のことを
思い出せと語るような、細胞の記憶を呼びさますような、
原始的な、肉体的な、空間を埋め尽くす音の波をもっている。
思い出せ、これらの音や踊りとともにくらしていたんだ。
思い出せ、これらを祈りと呼び、
人々の和を、神様を、宇宙を、つないでいたんだ。
新之介さんは、
「大いなるもの」という言葉を使っていらしたけれど、
それは、手の届かない、大きなエネルギーでもあるけれど、
それは、私たちの細胞の端にも内在する。
私たちは目を閉じれば、意識レベルの中で
自由に九天をめぐることができて、
自由に大いなるものとシンクロすることができる。
私はこうして目を閉じて物思いにふけっていたら、
一年後には、新之介組に参加していた。笑
(続く)
0 件のコメント:
コメントを投稿