
能面師という人はきっと、
どんな形であれ、
心の奥底に激しい修羅を持った
ものすごくドラマティックな時間をすごした人だろう。
なんとなくずっと、
勝手にそう思っていた。
しかし先日、
和の心にて候グループ長津代表のご縁でお目にかかった能面師も、
この映画で、面を彫る新井達矢氏も、
少年のようなあどけなさや
草原のような穏やかさを持ち合わせた方で、
私はあっさり期待を裏切られてしまった。
最近、「面打」という映画をみた。
この映画はインタヴュー映像などはなく、
サク、サク、サク、サク、という音だけが同じリズムを刻み、
ただの四角い木の塊を、ただひたすらに彫り続け、
完成した面は能楽師中所宣夫氏により、
舞台で上演され、終わる、
完全ドキュメンタリー映画である。
驚くことにこの能面師は齢22(当時)だそうで、
初めて面を彫ったのは小学生のころだったという。
特に伝統芸能の家系に育ったわけでもなく、
ただ地元東京羽村市の神楽などに親しみ、
面に興味をもったそうだ。
イタリアの靴職人のサルヴァトーレフェラガモは
子どもの頃初めて妹の靴をつくったとき、
ひとつひとつの作業を「想い出しながら」
靴をつくったという。
長い長い魂の旅のなかで、
過去に靴を作った記憶をよびおこしていたのだろう。
そんなことでもなければ、子どもが靴をつくったり、
能面彫ったり、しないだろうと思う。
「木」という素材と真摯に向き合い続け、
そこから有形を掘り出していくという工程には
修羅もドラマも必要ないのかもな。笑
人はなぜ、面をつくるのだろう。
人はなぜ、面をつけて舞うのだろう。
面を通して表現される人のこころの喜怒哀楽は、
人体の筋肉と皮膚が直接空気にふれて表現される喜怒哀楽と
どのような差異があるだろう。
面をつける事による感情や身体の変化とは、
どのようなものだろう。
抑圧か。
解放か。
洋の東西を問わず、有史の以前から
人は面(マスク)をつくっていた。
神々や精霊、あるいは動物などのマスクは、
それを用いてそのものに人格が変化するものと信じられたり、
宗教的儀式や儀礼にも多く使われた。
面をつける。
自分ではない、何か、に
肉体をトランス。
スイッチ、オン。
映画が終わったあと、そんなことを考えながら、
渋谷の雑踏を歩いた。
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