2009年8月21日金曜日

手から手へ

ライブへ向けて少しずつ、
新之介さんの頭の中にある設計図が
かたちを現してきます。

新之介さんは、本当に、細部まで、
明確なご自身の意思を持って、
手から手へ、ちゃんとした温度や質感が伝わる
もの作りをされているのがよくわかる。


考えることがある。
昨年、「デジタルネイティブ」という言葉がメディアに登場した。
ネイティブとはその土地の原住民、
複合的につまり生まれたときからデジタルがある世代を表現している。


私はもちろん、人生の途中から、
デジタルとそれによるコミュニケーションを覚えた世代で、
メールもインターネットもするけれど、
その時の気分や相手や伝えたい内容によっては、
特になんの違和感もなくアナログの通信手段を選択することもあるし、
新しく出会った人を、より知りたいなと思う時に、
その人の肉筆をみたいと思うことだってある。
iTunesやYouTubeはサイコーに素晴らしいけれど、
音楽はライブ、ダンスも芝居もまずは生の舞台を欠かさない。
それが自分のコミュニケーションの基盤だ。

しかし、例えば日常的に手を使って
紙に文字をためていく事はしなくなっているし、
いざ文字を書いてみると、私ってこんな字だったかしら?
と思うほど、自己表現としての運動神経は
びっくりするくらいどんどん衰えている。

世の中は、なんでもかんでもデジタルでアーカイヴされていき、
瞬時に全世界へ公開されて、
写真だって手紙だって、画面の中に目視しかできずに、
手に感触を残さない。
でもこれは悪いことなのか?

いや、そうばかりでもない。多分。便利だし。すごく。


18世紀にイギリスで始まった産業革命は、
その機械工業によって産業や労働だけでなく、
新しい階級をうみ、資本をうみ、
人口や社会、市場や経済のシステムまでを変えた。
機械を使うという単なる技術の問題ではなく、
良くも悪くも世界の構造を新しくした。
将来世界史は、産業革命を悪とだけ言うだろうか。

そして21世紀、デジタルネイティブによる、
システムの革新と再構築が世界を席巻する時がきっとくると思う。

その時我々は、何を取捨選択してゆくのだろう。
デジタルが全く温度を帯びていないとは思わないけれど、
でもそれは、私がアナログ×デジタルの
ハイブリッドタイプだからかもしれない。
生まれたときから誰もがデジタルアーカイヴに
自由に出入りできるようになる時、
それでも手の中に残しておきたいと思うもの、
感覚を残したいと思うものは何だろうか。
そもそも、手に残したいという感情はどこまで残るのだろうか。
大切な自分だけの宝物を、家の秘密の場所に隠して、
両親のいない時に自分だけでこっそり開く、あの時間は、
かたちを変えて、画面の中にしか存在しなくなるのだろうか。
アナログは、あえて特別に選択しなければ、
手の届かないところに行ってしまうのかもしれない。
ただし、その分デジタル世代にとって
生身のインパクトは大きいのかもしれない。



新之介さんは、子どもたちへ向けて、次代へ向けて、
無くしたものを取り戻すのではなく、
持っている力を呼び覚ます、そういう種をまいていこうとされています。
生で受け取る人の声、身体、音楽、感触、
あえてリアルを選択し、経験した時、得る感情を、
持っている感性を育ててゆく、ということ。

手から手へ。

夏の流しそうめんのごとく、
大人は持てる限りのそうめんを、どんどん流し続けてゆこう。
と、新之介さんの姿勢をみながら思うのです。
キャッチする者もあれば、そうしない者もいて、
流されるそうめんもあれば、受け取られるそうめんもある。
そうして持てる限りのそうめんを。。。

ああ。流しそうめん。
随分長いことやってないですよね。


遠い夏の思い出と、夏の終わりによせて。
そうめんのお話でした。

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